もの派がコンセプチュアルアートと闘った理由【20世紀】【日本】【ざっくり美術史16】

20世紀

20世紀中盤はコンセプチュアルアートが全盛の時代

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ソル・ルウィット

 1960年代流行したコンセプチュアルアートはアイデアアートとも呼ばれますが、アメリカの芸術家ソル・ルウィット(1928-2007)は1967年のエッセイの中でこう語ります。

 コンセプチュアル・アートにおいては、アイデアまたはコンセプトがもっとも重要である。作者がコンセプチュアルな芸術形式を用いたとき、それはプランニングや決定がすべて前もってなされているということであり、制作行為に意味はない。アイデアが芸術の作り手となる。wikipediaより引用]

 ソル・ルウィットは、グリッド状の形体を用いた平面や立体作品を制作しますが、手仕事自体を重視するのではなくて、それがなぜつくられたかという「コンセプト」に作品の根本があるようです。上の言説にしたがって言えばこれは建築的であると言えます。建築家と施工する人とは別で、大切なのは建築のコンセプトであり、建設自体は「指示」によって計画的に行われます。作る行為においては技術が必要であるのみで偶然性は放棄されます。

 このアートの射程は大きく、現代も有用でしょう。技術面を作家自身から他に依頼できることによって、アイデアの数でアートが無限に広がる可能性をもつこと、様々な人々がアート制作に関わることができるので、芸術がごく一部の人間のみの世界では無くなったのです。

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 さかのぼれば、コンセプチュアルアートの始原はマルセル・デュシャンです。デュシャンは「もの」をどうつくるかよりも「もの」をどう捉えるかでした。解釈重視の概念の芸術には、手仕事に拘泥しない、物質に執着しない態度があります。

 ロバート・ラウシェンバーグの『消されたデクーニング』(1953)

 河原温のデート・ペインティング(Date Painting)『“Today”Series』

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 ごく最近のコンセプチュアル・アートでは、マウリツィオ・カテラン氏(1960-)がアートバーゼルに出品したのは「壁に貼り付けられた一本のバナナ」(作品名 Comedy)で、この作品の全容はバナナを壁に貼るという「指示」だけです。バナナ自体は交換可能で、新しいものに取り換えても問題はありません。

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日本のもの派はコンセプチュアルではない

 1970年代前後の日本国内で、自然的な素材を作品の主役として扱う作家たちが「もの派」と呼ばれましたが、この「もの」の意味は物質、物体、ひいては「物としての役割」を離れた「もの」です。代表的な作家は関根伸夫や、菅木志雄李禹煥

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 菅木志雄は著書の中で、当時の国内でも盛り上がったコンセプチュアルアートの作品の軸である“観念”について次のように述べています。

 観念は物そのものの存在でなく、〈性質〉に直結し、逆に観念がそこに出された物以上に広がりをもたない[p.64]

これは概念芸術においては「作品のイメージ」のために物体、物質を利用していて、それは物質と観念の齟齬を産んでいるという事です。人間は多くは物の性質を利用して道具として用いているにすぎない、と言っているわけです。

 逆に菅やもの派の作家たちがを多く用いるのは、これらは単に人間の道具としての役割を離れても多くの意味や背景を伝えるからで、太古の昔から存在している重みというものを持っています。未加工の物質が持つ人間の想像を超えた存在感を作品で提示しました。

 多摩美術大学八王子校舎にも在る、関根伸夫作『空相』はいくつかのシリーズですが、巨大な一つの石が、ステンレスの直方体の上に置かれています。この作品はバランスというテーマのコンセプチュアルアートではありません。石の位置は浮遊した錯覚を引き起こしますが、そういったトリックよりも石が自然に置かれている姿ではなく、単体でそれによって石が石の概念を失った姿[p.67]を鑑賞者に示したのです。「概念的な、人間の思考力」を超えた作品をもの派の作家たちは目指していたと言っていいかもしれません。

 もの派の作品は自然物を扱いながら自然賛美であるわけではなく、物を用いながら物の概念をはぎ取り、意味をはぎ取りました。意味を取られた物に鑑賞者が対峙する意味とはなにか、菅は作品の〈放置〉によって人間と物体、自然の共存を示したのでしょう。西洋でのカントの「物自体」の観念やロカンタンが嘔吐したマロニエの根を想起させるそれらは、コンセプチュアルアートが私たちに多弁に語りかけるのとは別に、無愛想で近寄りがたい物質の姿を開示しました。

 菅木志雄の作品においても、自然物に対し人為は加えられますが、それは配置など最小限にとどめられ、表現という点でも最小限だと思います。もの派の作家たちはその作風からも個性や奇抜さはなくあくまで謙虚な姿勢が見てとれます。西洋を席捲しているアートに対し、具体美術協会が独自の道を取ったように、もの派もまた自らの環境に根差した立脚点を探ろうとしたわけです。

参考文献:『世界を〈放置〉する』ものと場の思考集成 菅木志雄著 ぷねうま舎2016