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特異な芸術家ボイス
1921年ドイツ クレーフェルトに生まれたヨーゼフ・ボイスは、第二次世界大戦中ナチス政権下のドイツ空軍に従軍し、44年クリミア半島上空でソ連軍の迎撃に遭い、ボイスの乗った爆撃機は撃墜されます。ボイスは脱出し、負傷しながらも一命を取り留めました。この時の事を、以後ボイスは、負傷した自分をタタール人という遊牧民が助け、体はフェルトにくるまれ、脂肪を塗られて体温低下を防ぐ処置をされたと語ります。
この墜落時の治療の逸話は伝説的に語られ、戦後、ボイスの作品の中でも色濃く表出するエピソードです。しかしながらボイスは実際には病院で治療を受けたとの記録があり、こういった異民族の暖かい救済が空想、フィクションであるという指摘も多く示されています。戦後芸術家を志し、デュッセルドルフ芸術大学で彫刻を学んだボイスは、ドローイング、オブジェ、パフォーマンス等多岐にわたる作品のみならず、討論会、大学での学生運動、パブリックプロジェクト、政界への立候補など話題に事欠かない活動を行いました。
ボイスの作品
『フェルトスーツ』(1970)(上)や、ピアノを包んだ『グランドピアノのための等質湿潤』(1966)はフェルトを用いた象徴的な作品で、飾り気のない灰色の材質は一見ジョークの様でありながら、戦争の重い空気を纏っています。
60年代から台頭してきたパフォーマンスアートにおいて、ボイスの有名な作品は『私はアメリカが好き、アメリカも私が好き』(1974)で、ニューヨークの画廊の中でコヨーテと一週間過ごし、道中も含め外界の人々とは一切接触せずに滞在した後、アメリカから帰国しました。アメリカ原住民を象徴させたコヨーテとの触れ合いの中で、民族的な問題やボイス自身の資本主義大国としてのアメリカへの感情が表れた作品です。このようにボイスは、挑発的で社会に訴えかける作品が多く、それらは必ずしも美的とは限りませんが象徴的なメッセージ性を持っています。
オブジェ作品の『脂肪の椅子』(1964)では、蜜蝋と脂肪を椅子に厚く塗り付けています。この不思議なオブジェの脂肪と蝋は、戦中の逸話をなぞりつつ、温度によって固体液体に変化する形体が新しい彫刻の姿を示唆しています。また、ボイスは脂肪と同時に蜜蜂を用いた作品(『作業場の蜂蜜ポンプ』1977)を制作しており、これについては思想家ルドルフ・シュタイナーの蜜蜂への称賛を下敷きとしており、蜜蜂の巣の生成の科学的な整合性と神秘性に多大な関心を持っていたようです。
62年にボイスは、フルクサスという芸術家集団(共同体)に招かれ、ビデオアートの代表であるナムジュンパイクなどと共にメンバーとして短期間活動をします。
フルクサスという芸術,反芸術
フルクサス(Fluxus)は60年代、戦後リトアニア移民として渡米したジョージ・マチューナス(1931-1978)がニューヨークで美術史を学んだ後、ギャラリスト、デザイナーとして活動する中でまとめあげた多国籍な芸術家の共同体です。
1950年代後半以降、世界に同時多発的に広まっていた反体制的な芸術活動の中で、マチューナスが開いた62年の『フルクサス国際現代音楽祭』(ドイツ ヴィースバーデン)で、フルクサスの名が初めて使用されたのですが、「Fluxus」は下剤をかけるなどの意味があり、凝り固まった旧態の芸術を浄化するような意図がありました。この音楽祭には、パフォーマンスアーティストや実験音楽のジョン・ケージ(1912-1992)の教え子が参加し、美術、音楽、文学の垣根を超えた上演パフォーマンスを行いました。笑いを誘うような風変わりな所作や破壊的な行動は、賛否を呼びながら、常識を抜け出て新たな想像力やメッセージを形作ります。
ジョン・ケージ
このコンサートは成功し、ヨーロッパを巡回してフルクサスは知られるようになり、参加した芸術家達は結束を強めました。メンバーは繋がりを広げ、次々増えていきましたが、そこでは国籍もジャンルも問わず、特別イデオロギー(主義主張)の統一を行うこともしませんでした。しかしながらマチューナスにはフルクサスの基準がある程度存在していたようで、誰でもメンバーになれるわけではなかったようです。
共通して言えるのは旧来の芸術、音楽の常識を覆したり、ユーモアを持ちながら鑑賞する人々と社会に提示し問いかける創作者たちであるという点でしょうか。
オノ・ヨーコ(1933-)は日本人の代表的なメンバーであり、多くフルクサスから影響を受けながら美術家、音楽家として独立した活動を現在まで行っています。彼女の作品は、言葉をテーマにしたパフォーマンス、実験音楽、実験映画など多岐にわたります。テーマは、反暴力、平和、女性。1964年に出版した詩集『グレープフルーツ』ではメッセージによってイメージを紡ぎだす表現が印象的です。
オノヨーコ
フルクサスとボイスに対する日本での反応
フルクサスに日本の芸術家が多く在籍していたこともあり、港区赤坂の草月会館では多くのフルクサスのイヴェント、リサイタルが開かれました。なかでも前衛作曲家であるジョン・ケージの初来日公演(1962年)は衝撃を与え、国際的な現代音楽の姿を示しました。
初期フルクサスに参加していたヨーゼフ・ボイスは1984年、西武美術館の個展に合わせて来日し、『コヨーテⅢ』というコヨーテの鳴き声のマイクパフォーマンスを披露し、また西武側はボイスの晩年の『7000本の樫の木』というドクメンタのプロジェクト( 樫の木と玄武岩という有機物と無機物を並置して街に植えるアクション )において、500本の樫を提供しました。
ボイス側は、資金繰りを兼ねて来日した面もありましたが、東京藝大体育館での対話集会が開かれたことで、ボイスへの様々な反応が国内で起こりました。とくに芸術の拡張としての政治や社会参入、討論会の実践は思想家、活動家の面を色濃く示していて、前衛的な芸術家像すら既存概念として取り壊していくような姿勢がありました。
日本人がボイスをアメリカのアンディウォーホルや、フランスのマルセル・デュシャンのような芸術家のスーパースターとして捉え、当時新しく注目され始めたエコロジーの概念に関わる「緑の党」への参与等は、芸術の垣根を超えた活動家としての広い知名度と多くの関心を集めたことは事実です。日本国内で自然信仰や戦争の観点で共感を生んだであろうボイスの作品は一方で、豊穣な自然が人間精神の一部であるというようなシュタイナーやドイツ観念論的な考えであったり、ドイツの歴史や民族への言及を含んでいます。あくまでヨーロッパの歴史の上に立ったボイスは、また異なった印象を来日によって与えたのではないでしょうか。
ボイスも含めフルクサスの芸術表現は、奇抜でありながら戦争と平和を考える時代に世界的に影響を与えた芸術といえます。「イヴェント」「ハプニング」と呼ばれるフルクサスの作品群は、強いメッセージ性を持っています。日本においても、旧来の絵画や彫刻芸術の枠にとどまらないパフォーマンスや映像芸術の多彩な芸術表現の力を受け取る契機となりました。
総括として、世界的な戦争によって芸術は変化し、デュシャンのウィットを横目にボイスは行動(アクション)しました。フルクサスの音楽家、芸術家たちはその表現を通して、世界を一つにまとめるというよりは、共鳴するような姿勢を促したのだと思います。
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参考文献:
『BEUYS IN JAPAN ヨーゼフ・ボイス よみがえる革命』水戸芸術館 2010
『フルクサスとは何か?―日常とアートを結びつけた人々 (Art edge)』塩見 允枝子 (著)2005
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