誰でも描ける!19世紀、チューブ絵具と印象派 モネ【ざっくり美術史3】

19世紀

 今回はざっくり美術史3。すこし時代が飛んで19世紀芸術に入ります。19世紀におきた画材の革命と、それによって生まれた画家を簡単に解説していきます。産業革命以降の工業化が画家にもたらしたのは・・

チューブ絵具の登場

 19世紀になって発明されたチューブ絵具は、画家にとっての革命でした。17世紀の工房では、顔料等を乾性油に丁寧に練り合わせ、描く際も薄く溶きながら重ね重ね絵具層を塗っていたのですが、その半固形状絵具が金属にくるまれました。それにより持ち運びがしやすく、保管もしやすい。(昔は豚の膀胱を縛って、絵具を入れていたそう。)市民画家は画材屋に行けば絵具を入手でき、チューブからそのまま画面に絵具を置く事だってできる。現代では当たり前の事ができるようになったのはこの時代なのですね。丁寧にあらかじめ練ってある絵具を買えば、誰でも絵が描ける、ということになりました。

印象派の登場 

 画家は、チューブ絵具キャンバス [1] によって、いつでもどこでも絵を描けるようになりました。屋外でも屋内でも、朝でも昼でも夕方でも。印象派の画家たちが出てきたのも必然かもしれません。

 『ルーアン大聖堂、扉口(太陽)』1894(見出しの写真)を描いたクロード・モネは、季節や時刻や天候の推移による反射光の変化だけに関心を集中し、 画面の視点を固定して連作を描きました。[2]モネの多くの作品を見ると、チューブ絵具による凹凸がありますが、眼前の光を感覚的に捉えることに力を注いだことが良くわかります。

クロード・モネ 「積みわら(朝の雪の効果)」 (1891)

 最初の記事で絵の上手さを書きましたが、モネの作品は上手いのでしょうか?古典と比較すると、艶は引けており筆のタッチも大味な部分もあります。しかしながら上の作品の青い陰影を見てください。屋外での影は黒や茶色でなく青であったのです。光の色、光の真実とはなにか、この目で見る!なかば機械のように写し取る人物像は、色彩の観察者であり研究者です。これは光の「写実」なのです。

 モネをはじめ印象派の画家たちは、サロン落選や嘲笑を浴びるなど画壇や伝統への苦悩はありましたが、描く対象への関心は非常に高く、精力的に制作していたことが分かります。

ジャポニズム 日本文化への興味

 印象派の時代19世紀後半について言うと、パリ万博での日本文化の紹介、ジャポニズムの流行を抜きにはできません。極東アジアの美的文化が印象派の画家のみならずヨーロッパの芸術全体に波及する中、同時期日本では1870年代、明治維新が起こっていました。近代化=西洋化を進める明治時代に日本の人々に西洋の油絵が伝わったとすれば、同時期の印象派に私たち日本人が、近しい感じを受けることは自然なことなのかもしれません。

 

クロード・モネ作「ラ・ジャポネーズ(着物を着たカミーユ)」1876

 西洋の油絵は、このような経緯で日本へ徐々に伝わっていくことになります。

というわけで今回はこの辺で、また次回。

 

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注釈[1]支持体に関しては、キャンバス(元は帆船のマスト)が15世紀後半に隆盛し、これも持ち運びしやすく教会から教会へ宗教画を移動するのにも都合がよいことから、板絵から取って代わっています。

引用[2]西洋絵画の巨匠1 モネ 小学館 島田 紀夫 p.70

画像引用:画像素材-g-sozai.com